「徳 川 慶 喜 公
    ---その歴史上の功績---」その5




   大政奉還と王政復古

                  宮 田 正 彦



 この講座も回を重ねまして最後ということになります。
 慶喜公の生涯を子供のころから追って、いろいろな出来事との関わりあいの中で話がなされて参りまして、将軍になった所までお話しがありました。慶喜公が将軍として行った事の中で、形として最も劇的であり、しかも其後の日本の歴史の方向を大きく定めたという点に於ては、大政奉還、そしてこれに続く慶喜公の態度というものが大きいと思います。それで、最終回はこの問題に絞って話をさせていただきます。
 大政奉還といいますのは、従来幕府が朝廷から委任を受けていた政治指揮権、日本国の政治を行う権利を朝廷にお返しすることでありました。当時の状況の中で大政奉還という言葉、あるいは考え方、かなり早くから出ていたものでありまして、慶喜公の独創ではありません。しかしその意味を本当に分かっていた人が一体何人いるか、というと、ほとんど無いと言っていいだろうと思います。
 井上勲氏の「王政復吉」(中公新書)という本の中に、

  大目付大久保忠寛の
 「徳川家の傾覆は近年にあり。上洛あって然るべし。その時、幕府にて掌握する天下の政治を朝廷に返還し奉りて、徳川家は諸候の列に加わり、駿遠参の旧領地を領し、居城を駿府に占め候儀、当時の上策なり。」
という言葉がひかれています。徳川家はおしまいである。間もなく駄目だろう。上洛あってというのは、将軍の上洛です。その時幕府の掌握する天下の政治を朝廷に返還し、「徳川家は諸侯の列に加わり駿河・遠江・三河の旧領地を領し」云々と。これが老中の御用部屋の会議で行われた、つまり幕府の政策決定の中枢の会議における大目付の発言であります。文久二年の七月か八月のことであります。
 慶喜公が謹慎を許されて将軍後見職になった直後くらいだろうと思います。この発言は満座の嘲笑を買いました。誰も相手にしなかったと言われています。文久二年は一八六二年ですから慶喜公が大政奉還を実行する六年ほど前になります。まだ文久の幕政改革というのがこれから始まろうという時期であります。井伊直弼の強圧政治は失敗したけれども、なんとか公武合体で天下の安定を図ろうと、幕府主導の新しい方策が探されていた時代であります。そのとき既にこういう言葉が重臣の中から出ています。ただこれは勿論、列席の重臣の人達には相手にされなかったという事です。
 なぜこういう意見が出てくるか、これは真剣な意見であるのか。どうも京都や外様の大名が煩くて仕方がない、面倒なことは止めて、徳川は徳川でいいじやないか、わあわあ言うのに政治を任せろ、という椰楡的な雰囲気も感じられなくもない気がします。ある種の感情的な反撥かも知れません。しかし政治を朝廷に返還するという言葉が、大目付から出ていることは重要なことであります。つまりこの文久の段階になりますと、諸大名は勿論、大目付・老中という幕府の政治を担う人物の中に、徳川氏の権力というものは朝廷からお頂かりしているものだ、という事は常識になっていたということです。
 同じ年、十月十三日に松平慶永から幕府へ出された辞表があります。これは慶喜公伝から引用したものですが、その文中で、面白いのは慶喜公が開国論を述べているところですが、それは今省略して、最後の二行目に「最早なされ方無之候へば、東照宮以来二百餘年関東へ御委任相なり候政権を京師へお指し上げに相成り、皇国の安危を天意に任せられ、徳川のお家は一諸侯と成らせられ候上にて、掃攘の叡慮ご遵奉有之、列侯と共にご忠勤励まる可く・・・」とあります。松平慶永は越前の藩主でありますけれども、その出自は田安家であります三卿の家に生まれて越前藩を継がれた。幕府の親族の中でも、年長といい、識見といい、いわば最も有力な一人と言えます。その人が辞表の中で、正式に此の事を言っている。これは先の大久保の意見よりも、もっと重大です。大久保の場合には、考えようによっては、その場の雰囲気で出た、と言うことも考えられますが、こちらは正式な書面として、幕府の老中に提出されているのであります。このような認識がありました。このような中で、慶喜公が将軍職に就くようにと求められた時に、「余は幕府を葬る為に将軍とならん」という意識を持ったとしても不自然ではありません。世の学者はこれは後年の回想であるから、信用できないと言いますが、幕閣、また慶喜公を支えて来た面々の中に、早くから、徳川の天下は絶対ではない、という認識があったのであります。これが慶喜公の大政奉還の前提ではないでしょうか。一種の心理的な背景としてあったと思われます。  ところで大政奉還の上表文は慶応三年十月十四日、朝廷に提出されました。その前の十三日には在京の、京都にいる諸大名の代表者といえる面々を二条城に集めて、慶喜公は、大政奉還ということをやろうと思う、意見のあるものは申し出よ、と言っています。この十三日に集まれという命今は十一日に発せられています。つまりこの十一日には既に大政奉還を決意していたと言います。山内豊信の名をもって建白された「大政奉還以外に新しい道を切り開く方法はない」という建白書は十月三日であります。建白書を受けて一週間で決断をされているのであります。非常に素早い決断でありました。「東照神君は天下の為に幕府を開かれたのであるが、余は天下の為に幕府を葬ろうと思う」と言って将軍になったのは、これよりも約十ケ月前です。
 実は将軍になった慶喜公は非常な抱負をもって日本国の秩序の維持のために努力をしようと致します。そのために例えば軍制を改革する、ヨーロッパ式の軍の訓練とか、兵士の募集方法の改定をしたり、また幕府の組織そのものを、老中会議ではなく、今で言えば内閣にいろんな省があるように、行政の内容によって、文教関係とか、収支関係とか、外国関係など部局分けにして老中などを局長に裾える新しい制度なども考えている。そういう慶喜公の将軍としての非常な改革の意欲、努力で少しずつ成果が見えてくる。そうしますと討幕を考えていた面々は非常な脅威の目をもって見て来ます。これは家康の生まれ変わりではないか、時日が過ぎれば幕府は立ち直ってしまう。とても討幕どころではなくなってしまう。慶喜という人物は恐るべき敵である。岩倉具視とか三条実美、あるいは薩摩の人々は一様に瞠目している。それくらいの努力をした訳でありますが、如何せん幕府に対する批判、なんとしても幕府を倒す、という方も必死の働きをして来るわけであります。いかに将軍が誠心誠意努力してもこの対立を解消することはできなかったのであります。しかもそこへもって来て孝明天皇が崩御されます。これが慶喜公にとっては非常に大きいマイナスの出来事でありました。慶応二年の十二月二十五日、年の暮れです。御歳三六歳です。慶喜公と孝明天皇は、お互いに攘夷という点では一致しなかったけれども心の上では繋がっていたようです。孝明天皇も慶喜公を信頼された。慶喜公はまた孝明天皇の志しというものに共鳴し、そのお気持ちを生かそうと努力したようであります。こうして幼い明治天皇が即位されます。朝廷における最も強固な協力者、要を慶喜公は失ってしまいました。これが慶応三年正月のことであります。それにもかかわらず慶喜公はいま述べましたような努力をし始めています。それがまた多くの人の注目を集めます。幕府否定派からは恐怖の目で見られる。しかし如何ともしがたい。ということで大政奉還になるのであります。慶喜公がそういうふうに幕府改革に意欲を注いだ、そして対立する勢力から恐れられた。これは慶喜公の後年の回想「幕府を葬ること」と矛盾するのではないか。という説が今の学会の中心的な学者からは言われております。
 しかし本当にこれは予盾するでしょうか。そのことを考えるのが、「誠」という慶喜公の書です。これは県立歴史館の一橋記念室に時々展示されます。年に一回は展示されます。これは大きなものでありまして、絹地に「誠」と書かれています。印が三つ押してあります。これは慶喜とか興山とかいう印ではありません。これが大事なところであります。
 興山とも慶喜とも書いてない。なぜこれが慶喜公の書かというと、「御軸の記」という添え状が付いている。一橋家で書いた添え状がついていまして、これは慶応三年の春に大阪表から形見として送られて来たものである。徳信院様という一橋の先々代の奥様が慶喜公にお願いして置いたもので、慶喜公が大阪から送って来た。というふうに書かれているので間違いがない。慶喜公が征夷大将軍になったのは十二月の初めです。この軸が一橋に到着したのは三月二十日とあります。おそらくは就任行事の多忙な時期が一段落した、一月末か二月頃に書いたものと思われます。つまり若き将軍の自分の養家への贈り物であります。それは当然、将軍としての決意を示したものであろうと思われます。一般的な美辞麗句でなく、「誠」という字を書いたことは、一橋家に対する自分の気持ちを表したものと言ってよいと思います。三種の印は、「時亮天功」「允文允武」「網紀四方」となっています。いずれも書経とか礼記という支那の古典から出た言葉であります。しかしこの言葉を見る我々水戸の人間は、すぐに「弘道館記」を思い出します。「天功を草昧に亮け威霊を茲の土に留むるをもってなり」あるいは「わが東照宮、撥乱反正、尊王攘夷、允に武、允に文、以て太平の基を開き給ふ」等とある文を。「四方を綱紀す」というのは天下を道徳正しい規律によって安定させると言う意味です。これは当然政治家としての使命であります。そうすると慶喜公は、この一つの掛け軸に「誠」という文字を書いて、こういう印を彫らせて押した。この印は他では使った形跡はありません。あくまでこの書のために作らせた印であると思います。自分が将軍となって今からやることは天功を亮くることである。つまり朝廷のお仕事をお助けする仕事である。本来、日本の国は陛下の国である。それをお助けする。その方法としては文武両道でいくのである。その結果としての天下の安定平和のためである。それを実行して行く力は何か、それは即ち「誠」の一字である。誠というのは、中庸という書物が全巻を使ってこれを説いている、人間のすべての良き行動の基本となる原点であります。将軍となった以上は、将軍としての責任を全力を挙げて果たすよう努力しなければならない。将軍としての責任とは、天下の秩序を維持し、国民の平和と安寧と社会の発展を実現する、そのために努力をする。そういう自分の使命を、誠の字で表す決意をしたのであろうと思われます。それは決して皇室を無視する事ではない。すでに最初に言いましたように、この当時幕府が政治を行うということは、天皇から委任された事項である、ということは常識でありました。これが慶喜公の将軍としての心構えであったと思います。とにかくこの混乱を打開する道を模素して見よう。つまり但野先生の話にあったと思いますが、少しも肩を抜かないよう、一生懸命やろう。それが将軍としての、試みとなって行く訳であります。
 いかんせん既に幕府の屋台は崩れかけておりまして、いかに新しい制度を作ったとしても、これを運用する人間が旧態依然では動くはずがありません。人材の不足を慶喜公は非常に嘆いておられます。「昔夢会筆記」でも、何カ所か出てきます。例えば当時の大名、松平慶永にしても山内豊信にしても、いっぱしの大名であって政治面に発言をして活躍しておりますが、慶喜公から見れば、あれは本人が偉いんではない、家来が偉い、こういう見方をしています。非常にシビアですね。薩摩は何故あれだけの事ができたか。これは大久保や西郷のようなものが居た。これが慶喜公の認識です。
 鳥羽伏見の戦いの前夜、大坂城中が沸騰します。当時、その場に居た人は、城の中の秩序は無くなっていた。いわばあちこちの部屋でみんながあぐらをかいて口角泡をとばして激論していた。慶喜公を殺してでも薩長をやっつけるんだ、というような状態でした。老中板倉勝静は、こういう状況ではとても抑えきれない、だから彼らを率いて京都に上ってほしい、と慶喜公に言って参ります。慶喜公は、ちょうど風邪をひいて休んでいました。床で孫子を読んでいました。その読みさしの孫子をさして、「敵を知り己を知らぱ百戦あやうからずと書いてあるが、いま幕府側に西郷吉之助のような人物がおるか」、と板倉勝静に聞かれます。板倉はしばらく考えて、「残念ながら居りません。」「大久保のようなものはおるか。」重ねて聞きます。「おりません。」それではこういうものはおるか、と、何人かの名前をあげて聞きますが、板倉は、「そういう人間はおりません。」と答えます。それでは、たとえ最初に勝ったとしても何時までも勝ち続ける事はできない。おそらく最後は負けを取り朝敵になってしまうだろう。自分はここで兵を動かすことはできない。このように慶喜公は板倉を説得します。結果は、遂に抑さえ切れなくなって鳥羽伏見に進軍して、敗れて朝敵になります。
 慶喜公はそのように、今の事態は大名たちが動かしているのではない、ということをはっきり見て取っているのであります。幕府の方でも実際に活躍したのは目付クラス以下の人達です。しかしそういうことで、やって見てもうまく行かない、ということが判りました。やはり討幕の動きも激しさを増して来ていますので、とにかくここは日本国内一致という為には、政権は一つにしなければならない。二つあったのでは、駄目である。大政奉還の上表を出した後でしたか、これでは戦国時代のように大名の割拠状態になるのではないか、と言った人に慶喜公はこう答えています。いますでに将軍が上洛を命じても従う大名は一人もいない。朝廷が上洛を命じても従う大名はいない。みな右顧左眄して出て来ない。すでにもう日本は割拠の状態ではないか、といっています。つまり二つの中心が、できてしまった訳です。片や将軍(幕府)の招集に応じて京都に集まれば、幕府に味方をする姿勢を明らかにすることであります。これは薩長に反対することになる。朝廷の命に応じて行けば、勅命であるからということで、行けばいいかと言いますと、実は勅命というものが、実際は薩長あるいは一部の急進的な公卿によって動かされていることは誰もが知っていることであります。結局、幕府に対抗する事になる。どちらかに決断しなければならないとすれば、将来的に勝ちを収める方に付きたいのは人情ですから、どちらがどうなるか分からない時には動かない。みんな大名たちは洞ケ峠を決め込んでしまいます。どっちが号令を出しても動かない。こうなれば、今後の問題を大名会議であるにしても、指導命令は一力所から出るようにしなければならない。それが大政奉還の趣旨だったと思います。そのことは大政奉還の上表文を見れば良く判ります。
      大政奉還上表
「臣慶喜、謹テ皇国時運之沿革ヲ考候二、昔シ王網紐ヲ解テ、相家権ヲ執テ、保平之乱、政権武門二移テヨリ祖宗二至リ、更二寵眷ヲ蒙リ二百余年子孫相受、臣其職ヲ奉スト難モ、政刑当ヲ失フコト不少、今日ノ形成二至候モ、畢竟薄徳之所致、不堪慙懼候。況ヤ当今外国ノ交際日二盛ナルニヨリ、愈朝権一途二出不申候而者、綱紀難立候間、従来之旧習ヲ改メ、政権ヲ朝廷二奉帰、広ク天下ノ公儀ヲ尽シ、聖断ヲ仰キ、同心協力、共二皇国ヲ保護仕候ハ、必ス海外万国ト可並立候。臣慶喜、国家二尽ス所、是二不過ト奉存候。乍去猶見込之儀モ有之候得者可申聞旨、諸候へ相達置候。依之此段謹テ奏聞仕候。以上。詢。
   十月十四日          慶喜」 (『徳川慶喜公伝』巻七)
 上表文の四行目に、「況や当今外国の交際日に盛んなるにより、愈朝権一途に出申さず候ては、網紀立ち難く候間」とありますように、国内の問題ばかりではなく、外国との問題を慶喜公は非常に重視しています。国際間は条約によって交際が行われている。条約に背くことはできないんだ。いま幕府の家来が、たとえ老中であったとしても、日本の使節として外国に行くとなると、天皇から見れば陪臣です。陪臣が外国へ使節として行くことは、国際常識としてあり得ません。そんなことを別の所で言われています。そういうことも含めて、とにかく「政権一途に出で申さず候ては」、となるのであります。
 奉還上表の期日がなぜ慶応三年十月十四日になったのか、ということですが、慶喜公自身の言葉を借りれば、奉還は早くから考えていたのであるが、そのあとどうするか、ということに成算がなかった。お返しして、ハイ知りませんよ。ではいけない訳です。見通しがないといけません。そう思っていたところに、土佐の上表に二院制度が書かれている。上院下院の制度がある。そうすると上院に大名達の代表を集め、下院には幕府の目付以下の人材、また大久保とか西郷のような各藩の有望な人材を集める。そうすればうまく行くだろう。こういうことを考えたので、土佐の上表を受け取って大政奉還を決意した。と本人は答えています。
 この大政奉還というもの、土佐が出してくるのは十月三日です。しかしこの意見は後藤象二郎が発想し努力したものであって、この年の六月に大久保や西郷、小松等の面々とこの問題について議論をし、後藤は討幕というような天下を動乱に落とし入れるような方法ではなくして、穏やかに政権を返させるやり方で行きたい、と薩摩を説得します。西郷や大久保も知っていて土佐の動きを黙認していたのです。薩摩には時間稼ぎの要素もあったのかも知れませんが了解は取っていました。後藤は京都の各方面の了解を取って、土佐の藩論として将軍に申し入れると言うことで土佐に帰ります。所がイギリス人が殺される事件が起こりまして、これに土佐の海援隊が関係していたのではということで、その外交処理の為に時間が経って結局十月になってしまいました。この数カ月の遅れが倒幕派の態勢を有利にしました。
 島津・伊達書簡というのがあります。これは将軍をして大政を奉還させる秘策をもって後藤象二郎が土佐に帰る時に、島津久光と伊達宗城が山内豊信へ託した書簡であります。
   島津・伊達書簡(慶応三年七月五日)
「今や六百年の国体を変通し、洋外各国を圧伏するの鴻業、貴兄の英偉、後藤の忠弼、水魚(ママ)、大知力に非ざれば、必ず恢復すべからず。とても、庸劣力尽の我輩、管見に及ばず思量する能はず、貴兄出京なく候ては、盲者の杖を失うごとし。」
                  (井上・『王政復古』)
これを見ると、島津・伊達など皆それがよろしい、大政奉還で行きましょう。と土佐を激励しています。
 今や六百年の国体を変通し、洋外各国を圧伏するの鴻業はあなたの決断と象二郎の明敏な知能がなければ出来ません、と言っている訳です。
 これが七月です。このなかで注目すべきは、「今や六百年の国体を変通し」というところです。これは鎌倉幕府が出来てから六百年ということです。武家政治の形である征夷大将軍の体制を止めると言うことです。これがこの慶応三年七月の段階で島津・土佐・伊達などの大名たちが考えていたことです。
 慶喜公の大政奉還の上表文の一行目の所に、「昔王綱紐を解きて、相家権を執りて、保平の乱、政権武門に移りてより云々」とありますが、これは武家政治の否定ではありません。相家、つまり藤原氏が摂関政治を執ってから、間違ってきたのである。保元・平治の乱から政権は武門に移ったのである。このことがいつ頃から意識されて来たのかわかりませんが、まず大名たちは武家政治の否定を考えた。しかし慶喜公はもっと深く、朝廷が、天皇が国を治めるという考えが崩れて来たのは摂政関白政治からである、と考えたのであります。これはやはり其処に水戸の学問の影響が考えられます。やがて出される王政復古の大号令は、摂関政治も征夷大将軍も廃絶する、諸事神武創業の始に原づく、という壮大な言葉になってくるのであります。この王政復古の大号今というのは、岩倉具視が考えたのでありますが、その時には、大化改新あたりに戻る、という考えでありましたが、国学者の玉松操が、それは神武創業でなければならないと進言したのであります。このように、これからの新しい時代に、どこを基準に、どこら辺から再出発するか、鎌倉以後を否定するか、藤原氏以降を否定するか、いろいろ意見があったのであります。玉松操は、それは建国の昔に返るのでなければならない、すべてを新しくするのでなければならない。それはそうだと言うことで、王政復古の大号今が出るのであります。実は倒幕派というか、幕府批判派の中には、既に早くからこういう考えは芽生えていたのであります。一例として佐久良東雄先生の歌をあげますと
草も木も 我が大君の ものなりと ふかくおもへる 人もあるらん

飯喰うと 箸をとるにも 吾が君の 大御恵みと なみだしながる

日の本の やまとの国の 主にます わが大君のみやこはここか

今に見よ 高天原に千木高知り 瑞の皇居つかへまつらむ

死に変り 生き変りつつ もろともに 橿原の御代にかへさざらめや
橿原の御代というのは神武天皇の時代です。
 これらの歌を見ていただくと、尊王捜夷という旗印の下で死んで行った多くの志士たちの中でも、最も純粋な代表と言われる佐久良東雄先生の心というものがそこに良く現れています。この心が結局、維新回天と言うものを成立させて行く大きな精神的背景だと思います。
 大政奉還ということを慶喜公が決意するまでの経緯や、なぜ十月になったとか、という問題は申し上げた通りですが、ここで現在の学者の方々がどう言っているか、と申しますと、石井孝教授の説が大概支配的であります。それは「朝権一途に出る」必要を上表文で強調したのは、慶喜公が、自分自身の政治路線を強力に推進するため敢えて行った一種の大博打のようなものである、という見方です。その慶喜公の政治的路線というのはなんであるか。将軍のことを外国人はタイクーン(大君)と言っていました。天皇のことはミカドと言っていました。この大君制絶対主義を打ち立てようとしていた。朝廷があって、それを擁した勢力があっては袋小路に入ってしまう。そこで一旦政治をお返ししてしまう。爆弾を投げ込む。しかしお返しすると言われても、これを引き受けられる公卿はいない。一般大名もいない。結局慶喜公のところに一戻って来る。そうすることによって、新しい権力を握ることになる。倒幕派が天皇を抱え込んでいたわけですが、逆に慶喜公がそれを取り込もうとしたのである。こういうふうな見方をしているのであります。それはなぜこのように言われるか、それは当時、日本に来ていたフランスの公使ロッシュに慶喜公が、いろいろ質問をしています。またフランス・イギリスなどに行って来て西洋の制度に詳しい西周を呼んでヨーロッパの政治制度、三権分立の制度とか議院の制度とかなどを聞いています。田中彰という人が書いた文章(「日本歴史大系」4(小川出版))ですが、つまんで言えば、「もし慶喜が政権を朝廷に返上し、政治の実権から離れようとしていたのであれば、このような行動に出るはずはない。だから当時越前藩主ですら、大政奉還は奉還を受けた朝廷が、それを持てあぐみ、天皇は再ぴ政権を慶喜公に委任するであろうことを狙った、慶喜の幕権回復のための策略か、という疑惑は否定しきれない。」(これは当時の資料に載っています。だからそういう見方があったのは事実です。)昔夢会筆記等を見ても慶喜公は「一切野望はなかったと、躍起になって否定している。しかし慶喜が躍起になって否定すればするほど、そこには政治的野望が浮かび上がって来る。」として西周が考えた新しい政治体制「議題草案」を説明しています。そして続けて、結果として現実に作られた明治国家は、天皇制と呼ばれているが、それになぞらえて言えば、これは大君制である。この大君制を作り出すことを、慶喜は企図していた、といってよいだろう。この政治的野望があったからこそ、後年の慶喜は躍起になってそれを否定したのである。それゆえにこそ、「この政治的野望を倒幕派のかついだ幼い明治天皇に奪われた悔しさが慶喜をして、駿府引退後から還暦に至る約三十年間を公式には駿府から東京に出ることなく、天皇にも会わないという高度な政治的抵抗の空白の三十年を送らしめたのである。」と述べています。
 言わんとするところは、要するに大政奉還というものは、政治的謀略である。慶喜を首班とする大君制国家を作るための陰謀である。ところがそれが失敗した。それでひねくれて三十年も東京に出なかった。明治天皇にもお会いしなかった。そういう態度を取った。こういう見方をしている。この文章は十年ほど前に出た本に載っています。
 これについて少し考えて見たいと思います。
 慶喜公は西洋の制度を西周に質問されます。これは慶応三年十月十三日の夕方です。つまり大政奉還に踏み切ろうという決断をした後です。翌月になって西は文章にして提出しました。大政奉還の上表を出した時に慶喜公は、ヨーロッパの議院制度とか議会制度などについて、詳しい知識はなかったと言ってよい。もしそういう新しい制度を大君制にして作ろうというのであれば、前まえからそれだけの、研究準備があって大政奉還というのが筋であります。大政奉還をやってしまってから、泥縄式に質問をしているのでありますから。ですから、この質問の意味は全く田中彰という北海道大学教授(当時)と違った解釈ができます。田中さんは二重の過ちを犯しています。政治の実権から離れようと企図していたのであれば、たしかにこのような行動に出るはずはない。しかし大政奉還の上表文を読んでも昔夢会筆記を読んでも慶喜公は政治の実権から離れようとしてはいない。あくまでも、肩を抜いてはならぬ、この国の為に一生懸命やる、新しい政府のもとで、一徳川として頑張る、と言うことを文書で言っている。大政奉還の上表文にも「広く天下の広儀を尽くし、聖断を仰ぎ、同心協力、共に皇国を保護仕り候へば、必ず海外万国と並び立つべく候。臣慶喜、国家に尽くす所、是に過ぎずと存じ奉り候」といい、手をぬくとか、投げ出すとか、一つも言っていません。ともに一緒にやりましょう。今までは将軍として命令する立場にいた、しかしこれからは、陛下のご意志に従って諸侯力を合わせてやりましょう、自分も力を出します。というのであります。これを素直に読めば、全く手を抜くとか、政権から離れるとはどこにも書いてない。そのほかを読んでみてもそうであります。「言い訳をしたり、躍起に否定している。」これは何を指すのかよく分かりませんが、昔夢会筆記を読んでの意見ですが、慶喜公がそんなに躍起になって否定しているようには、私には読めないのであります。何らかの策略があったのか、ということでは、そんなものは無いと繰り返し述べていますが、そのほかの事では、自分も新しい政府に協力する気持ちがあったんだ。投げ出す気持ちはなかった、とはっきり言っています。ですから大政奉還は政治の実権から離れようという意図とは関係がありません。ここで全く誤解をしています。しかも西周に聞いたのは大政奉還を決意した後の話であります。当時はいろいろな人がいろいろな政権構想を持っておりました。それらがどの程慶喜公の耳に入っていたかは明らかではありませんが、いろいろな断片的な知識として西洋の事情は知っていたと思います。ロッシュに質問しているところは、西洋の事情を考えながら、今の日本をどうしたら良いか、という質問をしています。そういう中でいろんな知識は入っていたと思います。まるきり知らなかったとは思えない。しかしそれは幕府が倒れたあと、日本の国が混乱してはいけない、朝廷から必ず質問があるだろう、どういう立場になるか分からないが、それについてやはり自分の意見を作っておかなければならない。こういう判断であったと思います。
 ましてや、政治的野望を幼い明治天皇に奪われた悔しさが三十年の政治的空白となったとか、超政治的抵抗とか、こういう評価がはたして妥当性を持つのか、ということ。実は田中さんだけでなく、田中さんがこれを書く数年前に「慶喜残照」というものが週間朝日に連載されましたものが本になっていますが、あれにも最後に書いてあります。そういう非難に対しても答えておかなければなりません。
 慶喜公が萩野由之博士に贈られた掛け軸の書があります。これは東京大学で萩野博土の講座を引き継いだ平泉澄先生にさらに贈られたものであるために、今では福井の平泉寺にあります。
 これには、「宝祚之隆當與天壊無窮」(宝祚の隆えまさむこと、まさに天壌と窮り無かるべし)と揮毫されています。これは天祖の神勅と言われるものの、後半の部分です。目本書紀によりますと天照大神がお孫の瓊瓊杵尊を豊葦原の瑞穂の国に下すにあたり「豊葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是れ吾が子孫の王たる可きの地なり。宣しく爾皇孫就きて治せ、さきくませ宝祚の隆えまさむこと、當に天壌と窮無かるべし」と詔りされました。この日本の国土は自分の子孫が治める国である。お前は行って治めなさい。そしてお前の子孫がいつまでも栄えるように。後半の部分は予祝であります。予め祝福する。お祖母さんが孫に向かってお前の家族がいつまでも栄えるようにね、というような希望を込めた言葉であります。この掛け軸がいつ書かれたか分かりませんが、萩野博士は徳川慶喜公伝の編纂を主管した人です。ですからこれはおそらく大正に入ってからの事だろうと思われます。慶喜公最晩年の書と恩います。この言葉を萩野博士が慶喜公に書いてほしいと頼んだのかどうか、その可能性は私は少ないと思います。それは萩野博士の事歴から考えてもある程度想像できますし、もし自分が頼んで書いてもらったのならば、講座を譲るからといって、後の教授にこの書を上げるということは、ほとんど無いと思われます。これを生涯の宝とし、子孫への訓戒としたい、というのであれば、自分で言葉を選び書いていただき、大事に残すものであります。いかに後輩とはいえ他人に譲るというものでは無いと思うのが自然でしょう。だとすればこれは、おそらく「慶喜公伝」というものがひと通り出来上がった時、慶喜公は全部これに目を通します。また書き直しがいろいろ有って、全部完成しない内に慶喜公は亡くなられますが、目を通しておられます。そのあたりの所で、良く書いてくれた、ご苦労であった、この伝記を通して自分が志して来たものが明らかになって来ていると慶喜公は満足されたと思います。「それを詰めて言えば、この言葉なんだよ」という意味を込めてこれを書かれたのではないかと思われます。慶喜公のほかの掛け物というものは、「誠」以外はこういった志を述べたものはあまりありません。ごく普通の風流な言葉のものは、いくつか残っています。私はそういう意味で、慶喜公が伝記の出来上がった段階において、それを総括して、これが自分の気持ちなんだよ、と言うことを書かれたと想像しています。そうでないとしても、少なくともこの言葉を書いて他人に与えるような人が、幼い天皇に、奪われたからといって恨んでいる人と同じはずがない。これは皇室の弥栄を心から祈念する言葉でしょう。
 現在の学会の認識というものは、石井氏・田中氏のような見方をする人が多いのですが、もっと慶喜公の心の中に入って考えなければいけないと思います。歴史学というのは、政治学や経済学とは違うのですが、どうも最近の歴史学の先生方は、政治学や経済学の論文を書いているような気が致します。そういう人が多いですね。
 歴史は時代と共に有る訳ですけれども、時代はまた人と共にあります。その時の人の働き人の考えと言うものを抜きにし、無視して、歴史は無いはずです。ある時代の何かの出来事を考える時には、主としてそれに当たった人を理解する努力をしなければなりません。でなければ勝手な解釈をすることになります。
 大政奉還は以上のような訳で、朝廷に政権をお返しするが、自分もまた捨て身になって朝廷の意を受けて新しい時代の為に尽くす、こういう精神であった。決して肩を抜く、投げ出すというようなものではない。慶喜公自身も、わが新しい国家はどう有るべきか、について少なくとも奉還の決意を在京の代表に告げたその夕方、西周を呼んで勉強しているのであります。
 しかしながら、この上表を受けた朝廷の決定は、慶喜公および幕府にとって、非常に衝撃的であり苛酷でありました。これは倒幕派の画策が通ったためであります。十二月八日の小御所会議の決定であります。つまり官職位階すべてお返しして徳川慶喜は一庶民となれ、徳川家としては所有する領地四百万石のうち二百万石を朝廷に献上せよ、という決定が下されます。
 これは其後も将軍を中心とする体勢、幕府の権威というものがまだ続くだろうというように考えていた大勢の旗本や大名たちにとっては衝撃でありました。慶喜公自身にとっても、衝撃であったと思います。これは罪人扱いですから。
 徳川三百年、武家政治六百年の責任を負えということであります。理屈としては分からない事もありませんが、領地を没収される訳であります。禁門の変で戦った長州でさえそんなことは無かったのであります。長州は隠居して、家督は残り、領地は取られなかったのであります。ですからこれは徳川氏に対しては非常に苛酷な処置と言えます。それでみんなは非常に怒ります。しかも薩摩は手を巡らして、益満休之進などは江戸の薩摩屋敷に根拠を於て沢山の浪人を集め、江戸市中で乱暴を働く、放火をする、関東地方一帯に乗り出して放火略奪の乱暴狼籍を繰り返します。将軍の本拠である江戸、関東の治安を乱し、騷擾の状態にもって行こうといたします。たまりかねて江戸に残った旗本が薩摩屋敷の焼き打ちを致します。いくら慶喜公が、西郷や大久保のような者がいるから、戦ってはだめだ、と言っても、我慢の限界を越えてしまっていました。で、鳥羽伏見の戦いになるのであります。
 恐れていた通り、慶喜公は朝敵になってしまうのであります。松平慶永や山内豊信も十二月八日の決断が、朝廷の決裁が苛酷であるということはわかっておりましたので、なんとかその間を調整したいと動きますが成功いたしません。あくまでも武力によって幕府を倒すという、事実によって古いものを倒して新しい国を作らなければだめである、という倒幕派の主張が勝ちを占めます。慶喜公は朝敵になります。鳥羽伏見に敗れた報を聞いて、すぐさま大坂城を抜け出して軍艦で江戸に帰ります。このような将軍の行動が、当時の人々にとっては非常に不可解である、何という卑怯な態度だ、渋沢栄一なども、はじめそう思ったと書いています。そして一意恭順、あくまで無抵抗ということになります。鳥羽伏見で暴発してしまって、押さえられなかったという後悔を残しながら朝敵になるという結果になりましたが、一体いつから無抵抗を決意したのでしょうか。江戸へかえって来ても、将軍が巻き返しに帰って来たと本気で思う者もいました。いろんな作戦を慶喜公に進めます。例えば箱根の関を境にして戦えとか、海軍を太平洋から東海道・紀州・瀬戸内海・薩摩に、幕府の強力な軍艦を派遣して攻撃せよとか、いろんな戦略を進言する人がいたようでありますが、一切それを押さえて、あくまで無抵抗、一意恭順といわれている態度をとられます。あくまで抵杭しない、あくまで朝廷のご処置を待つ、ということです。これは本人が言っております。
    明治元年春、佛国公使ロッシュの勧告を拒絶せられし事に関する記録(慶喜公伝巻七)
此程中佛蘭西人(ロッシュ)度々登城し、種々御勧申上候事御座候處、其砌の上意に、兎角我邦の風儀として、朝廷の命を名とし、兵を指揮候時は、百令悉く被行、たとへ今日公卿・大名の輩より申出候事たりとも、右申す如く、勅命と申候へは難背事、古今確固として変せさる国風なり。・・・・・且今日兵力を挑候へは、・・・・・国々各地に戦争起り、三百年前の如く、兵乱の世と相成、万民此害を受候事容易の事にあらす、・・・・・元より王室に対して無二心旨を幾度も申被、其御処置を相待の外無之、抑正月東帰以来、我等心底は爰に決して柳も動揺することなし。・・・何そ一時の怒りより、祖先以来の忠功を空しくして、擾乱の基を開くべきや。此上も我等の本意に背き、私の意地を張て、兵を動かさんとする者は、当家代々の霊位に対すとも決して忠臣にあらす。況や皇国へ対して逆賊の名を免れす。・・・・」(幸島圭花筆記)(註・通辞は塩田三郎)
 右の中で、「抑正月東帰以来、我ら心底はここに決して、いささかも動揺することなし」と言っています。明治元年になるのは慶応四年九月ですから、正式に言えばこの時期は慶応四年であります。要するに江戸に帰って来た直後、ロッシュが頻りに尋ねて来て、フランスが軍事的にも財政的にも協力するから薩摩長州をやっつけろ、と言って来ますが、慶喜公はそれを拒否します。その決意は大坂城を出た時からしていたということです。
 これは他に何も証拠はありませんが、状況証拠ですけれども、慶喜公が大阪城を出る時に、大阪城に残るものと出る者とに、分けましたが、老中板倉や永井は同行します。その時に慶喜公は京都守護職の松平容保と京都所司代の松平定敬、会津藩主と桑名藩主、この二人を、一寸おいで、と一緒に連れて行くのであります。松平容保は庭でも散歩するのかとついて行くと城の門を出てしまった、と言っています。これはもう既に徹底抗戦をさけ、一意恭順を決意したものと思われます。つまり会津と桑名、特に会津藩は二千人くらいの兵士が京都に来ていました。京都治安の最も強力な軍事力でした。江戸からもどんどんと大阪城に集まっていましたが、まとまって戦闘力の有ったのは会津藩です。事実、鳥羽伏見の戦いでも、会津は奮戦しています。敵の鉄砲の乱射の中を抜き身を引っ提げて突っ込んで行くのは会津藩士でした。非常な損害を被ったのでありました。それだけ勇敢でありました。ですからもしこの薩摩、長州の動きを不服として少しでも軍事的抵抗の意志があるとすれば、鳥羽伏見で負けて来た者たちを、大阪城で再編成して、ここで薩長の勢いを止める。これは初歩的な戦略でもあります。その場合、その時の主将は誰がなるか。慶喜公は江戸に戻って作戦を立て直すにしても、大阪城を守るものがいなければならない。軍隊というものは総指揮官がいなければならない、その総指揮官の二人を、さらって来たのであります。ですから、大阪城に逃げて来た者たちも、結局散り散りに退散します。大阪における抵抗の芽を慶喜公は摘んでしまったのであります。大阪城を出るときに、一切抵抗しない、と決意していたと言えます。ロッシュに対してもそのことは明言している訳です。
 大政奉還から一意恭順という慶喜公の姿勢に移りますが、この一切の武力抵抗を廃し、主戦論の旗本たちの暗殺の危険を犯しながら、断固としてその姿勢を貫いたのはなぜか。結局ここの所は、多くの学者先生も正確に説明していません。
 例えば松浦玲氏の、「徳川慶喜」(中公新書)などでも、あの圧倒的な武力があったにも拘わらず、あっけなく負けた事でぴっくり仰天して逃げてしまった、というように解釈しています。いろんな解釈が、今までなされております。ある人は朝敵になったということに耐え切れなかった、というような解釈もあります。
 しかしこれは、逃げ出した、という説明になっても一意恭順の説明になりません。圧倒的な力というのは、兵力としては一・五〜三倍ほどありました。
 こういう解釈が現在の学会の一般的な見方です。しかし慶喜公の一意恭順という姿勢がなければ日本は再び戦国時代のように、激しい大名同士の争いになったかも知れない。松浦玲という人の見方は要するに、あれは朝廷というものを薩長が担いでいたために、問題の核心がよく分からなくなっているのであって、実態は徳川対薩長という大名同士の対立である、いわば関ケ原の再現である。それにほかの大名たちが、どっちに付くかということに過ぎないんだ、というものであります。これは極端な言い方で私は賛成しませんが、こういう見方をしている学者がいます。
 しかもそこに関ケ原時代と違った外国の勢力の問題があって、薩長にはイギリス、幕府にはフランスがついています。事実フランスの軍人たちの何人かは五稜郭、函館まで行って一緒に戦っています。ただ、フランスの方は本国の方針がこの時期変わりましてロッシュは孤立状態でありました。実際に幕府が頼ったとしてもどの程度の事ができたか少し疑問もありますが、いずれにしても日本を舞台にした、英仏の対立抗争がありました。場合によってはインドやシナ大陸のような日本の植民地化という心配もありました。全面的でなくても、九州はイギリスにとられるとか、東北地方はフランスとかにならないとは言えない難しい時代でありました。それをあくまでも実質的に薩摩、長州に軍事的に十分対抗できる実力を持ちながら、それを発動せず、あくまでも裏に薩長がいることを知っていながら、一意恭順を貫いた慶喜公の存在は大きかったのであります。
 なぜこのような態度を取ったのか、これが大きな謎とされ、いま申しましたように、いろいろと説があります。本人の言葉がただ一つ、それを説明しています。
 明治三十四年の頃にや、著者栄一大磯より帰る時、ふと伊藤公(博文)と汽車に同乗せることあり、公爵余に語りて、「足下は常によく慶喜公を称讃せるが、余は心に、さはいへど、大名中の鏘々たる者くらゐならんとのみ思ひ居たるに、今にして始めて其非几なるを知れり」といひき。伊藤公は容易に人に許さざる者なるに、今此言ありければ、「そは何故ぞ」と推して問へるに、「一昨夜有栖川宮にて、西班牙国の王族を饗応せられ、慶喜公も余も其相客に招かれたるが、客散じて後、余は公に向ひて、維新の初に公が尊王の大義を重んぜられしは、如何なる動機に出で給ひしかと問ひ試みたり、公は迷惑さうに答へけらく、そは改まりての御尋ながら、余は何の見聞きたる事も候はず、唯庭訓を守りしに過ぎず、御承知の如く、水戸は義公以来尊王の大義に心を留めたれば、父なる人も同様の志にて、常々論さるるやう、我等は三家・三卿の一として、公儀を輔翼すべきはいふにも及ばざる事ながら、此後朝廷と本家との間に何事の起りて、弓矢に及ぶやうの儀あらんも計り難し、斯かる際に、我等にありては、如何なる仕儀に至らんとも、朝廷に対し奉りて弓引くことあるべくもあらず、こは義公以来の遺訓なれば、ゆめゆめ忘るること勿れ、萬一の為に諭し置くなりと教へられき、されど幼少の中には深き分別もなかりしが、齢二十に及びし時、小石川の邸に罷出でしに、父は容を改めて、今や時勢は変化常なし、此末如何に成り行くらん心ともなし、御身は丁年にも達したれば、よくよく父祖の遺訓を忘るべからずといはれき、此言常に心に銘したれば、唯それに従ひたるのみなりと申されき、如何に奥ゆかしき答ならずや、公は果して常人にあらざりけり」といへり。
                     (徳川慶喜公伝 四(逸事))
 右は渋沢栄一が明治三十四年の頃、大磯からの帰りの汽車で伊藤博文公爵と一緒になった峙に、慶喜公が大政奉還をされた時の気持ちを聞かされたままを記した話であります。
 それは、我々は三家・三卿である、だから全力を挙げて幕府(将軍)を助ける立場であるが、しかし若しも朝廷と将軍家とが対立するような事になった場合には、日本の国のご主人は天皇であって将軍は一族の本家であるにすぎない、朝廷に弓を引くことは無いんだ。と言うことを繰り返し親から教えられた。特に二十のころ念を押された。「唯それに従いたるのみなりき」という事を聞いて博文は非常にぴっくりして渋沢栄一に語ったものであります。
 あの慶喜公の最後の判断、大阪退城後の一意恭順が水戸の庭訓であると言うことを、自身の口から出たものとして重要な資料であります。
 今の学者はこれを余り引用しません。注目しません。なぜ注目しないか、水戸学を知らないからでもありますが、この資料は水戸学を知らなくても伊藤博文・渋沢栄一という当時の舞台の主役の二人がここに出て来ている、それだけでも高く評価されてよい。この二人の慶喜公評でありますから。おそらく渋沢栄一はこれを慶喜公伝に入れるについて伊藤博文の言葉を借りて、そうなんだよ、これが慶喜公なんだよ、これを分からなければだめなんだよ、と非常な喜びをもって書いたと思います。
 渋沢栄一は、初めは攘夷運動をやろうと血気にはやっていろいろ運動しましたが、そのうちに慶喜公に見出されて側近になります。その経営の才能を買われて民部公子付きでフランスに渡ります。ですから慶喜公の最後の土壇場の時には日本に居なかったのであります。非常に慶喜公を尊敬して居りました。慶喜公が隠居した後も時々尋ねて話相手に成って居りました。人間的にどういう人であるか、私もよく調べていませんので分かりませんが、ただ、私は平泉博士から聞いた話があります。渋沢栄一は、この慶喜公伝の後でしょうか、白河楽翁伝を編纂しようとします。楽翁公は寛政の改革の松平定信です。それを東大の国史の教授の誰かにお願いしたいと依頼します。結局一番若い平泉澄博士に白羽の矢が立ちました。それで平泉澄博士は渋沢栄一を訪れます。当時もう財界の大御所であります。そのとき平泉澄博士に対して、いきなり「私はこの年まで生きて来まして随分悪い事をして来ました」と言われたそうです。これはえらい言葉です。「が、少しはいいこともしました。その良いことが出来たのは、考えて見ると全て白河楽翁公のお陰です。ぜひこの定信公の精神を後世に正しく残したいと思うので、この伝記を考えたのであります。どうかご協力戴きたい」と言われたそうであります。この楽翁公のお陰です、と言ったのは、東京の、例えば一橋の学校の建設とか、橋を架けるとか、ガス灯を作るとか、養老院を作るとか、いうような民生・教育のための資金の全ては「七分積み立て金」と云われたものから出ています。つまり松平定信が「七分積み立て金」の制度を実現させまして、江戸の町々ごとに、経費の七分を残して積み立てさせた。これが幕末、明治に引き継がれた時に莫大な金額に成っていました。これは江戸市民の積み立てたものであるから、東京の為に使うべきである。といって各種の福祉施設などを作ったのが渋沢栄一でありました。そういう人であります。伊藤博文はどういう人であったか、これも私は勉強したことありませんから知りません。私が一つだけ知って居る事は、伊藤博文が「常陸帯」を読んで居ることであります。藤田東湖先生の書かれた「常陸帯」です。弘化甲辰の難で烈公が処罰されます。東湖先生も処罰されます。そのときに自分の誠意が足りずに、主君を不幸な目に合わせしまう、まことに申し訳なかった、と腹を切ってお詫びしようとするのですが、死んでしまっては罪を認めることになると、やめます。その代わり幽囚の中で、烈公のやって来られた仕事は、こういうものである、こういう精神である、と逐一書き上げます、言わば、水戸の藩天保改革略記といったものが「常陸帯」です。これを伊藤博文は読んで居ます。読んだ後、本の末尾に一首の歌を書き留めています。
常陸帯よめば涙の玉ぞ散る
    人を動かす人の真心
 私は現物を見た訳ではありません。写したものを見たのですが、そういう歌を書いた「常陸帯』が残って居ます。それが東北本線の汽車の中で読んで居るのです。そしてその月に伊藤博文はハルピンで遭難し亡くなります。
 渋沢栄一にしても、伊藤博文にしても本当の意味での人間の価値、人聞の真心、人聞の精神というものを良く理解して居る人であると思います。
 それが二人とも、現実に慶喜公を目の前に知って居るのであります。立場こそ異なれ共に幕末の国事に奔走した二人が、慶喜公について話しをして居るのであります。書物で見て知って居るのではありません。その話しを実際に本人にじかに聞いて、ああこういう人だったのだなあと感じた感動は本物に間違いありません。だからこれはウソではありません。そして慶喜公が言った言葉も、伊藤博文にとって、なるほどそうかと思わせる真実があったに違いありません。
 有栖川宮家で慶喜公と伊藤博文が話し合った明治三十四年は慶喜公も六十歳を過ぎています。いろいろ言えばいろいろ有ったでありましょうが、結局将軍になり、紆余曲折が有り、失敗し、悩んだのでありましょうが、究極の判断の拠り所は何であったか、それは親の教えでありました。水戸学の教えでありました。義公以来の水戸の教えを守ったにすぎなかった。それが本当なんだ、ということが本人自身の考えでもあったと思います。親の教えを守ったという事については、今までお話しした中で三家三卿として将軍を助けよ、ということは「誠」という字の中にも、よく表れていると思います。責任から逃げない、至誠をもって貫く。そのことは、蛤門の変の時、あるいは兵庫開港をめぐる条約勅許の際の態度などにも明瞭であります。
 烈公が亡くなられた時、慶喜公二十五歳の時です。歌を読まれています。
泣くなくも かりの別れと思ひしに ながき別れとなるぞ悲しき

しばしばに 君がをしへや忘るべき 我になおきそ露も心を

けふよりは いづくの空にいますとも 心はゆきて君に仕へん
 「しばしだに君がおしへや忘るべき」。教えと言ってもいろいろあるでしょうが、その中の一つが「弓引くことあるべくもあらず」であります。「あるべくもあらず」というのも大変な言い回しで、これが誰の表現なのか知りたいと思っています。「あるべからず」なら禁止であります。禁止の場合には、いくつかの条件があって、その中の一つを取らないという場合もあります。「あるべくもあらず」は「そんなことは絶対に有り得ない」「これしか途は無い」となりましょう。この表現は渋沢栄一の表現なんでしょうか。慶喜公の言葉がそのようなニュアンスを含んでいたのでしょうか。とまれ、「朝廷に対して弓引くことあるべくもあらず」ということも、烈公の大事な教えの一つでありました。そういった教えを守るという事を二十五歳の時に言って居ります。
 先に読みました明治元年春ロッシュの勧告を拒絶した時にも出て来ます。くり返し読みます と、
「とかく我が邦の風儀として朝廷の命を名とし、兵を指揮候時は、百令悉く行われ、たとへ今日公卿・大名の輩より申し出候事たりとも、右申す如く、勅命と申候へば背き難き事、古今確固として変ぜざる国風なり」
 公卿や薩摩・長州の画策ということは分かっていても、勅命であれば、これには抵抗しない。これが日本の国風であるとロッシュに説明しています。さらに説明して、これが間違えば我が国は乱世になると言って居るところは先程述べた通りであります。
「我ら心底はここに決していささかも動揺することなし」「何ぞ一時の怒りより先祖以来の忠功を空しくして擾乱の基を開くべきや。この上も我らの本意に背き、私の意地を張りて、兵を動かさんとする者は、当家代々の霊位に対すとも決して忠臣にあらず。況や皇国へ対して逆賊の名を免れず」
 これがロッシュの抗戦の要望に対しての慶喜公の返事であります。この時は通訳が一人だけいました。その通訳からの話であります。
 ここで注目すべきは、徳川三百年の将軍家への忠節ということは、私の意地になる、公と私の峻別、公としては朝廷、それ以外は私、そしてその当時の感情、薩摩憎し、という怒りをよくそこまで押さえられたと思います。
 そういう判断の下に江戸城に謹慎し、上野寛永寺に移り、水戸弘道館に移り、駿府に移ったのであります。駿府に移つたのも、東北が騒がしくなって水戸は近いですから、慶喜公を引っ張り出す者も居るやも知れませんから、これを避けるためであったと言われています。
 この三十年間の空白も、権力を取られて憎らしい、というような事では無くて、もし何らかの形で世に出て行けば、必ず政治に巻き込まれる危険がありますから、恐らくそれを避けたのであろうと思います。私の時代は終わった。後は若い者がやるんだ。わたしはやるだけの事はやった。あとはもう出ない。そういう気持ちではなかったか。さすがに六十歳を過ぎれば、当時では老人ですから、もう安心だろう、そういう見方も出来ます。もちろん慶喜公は明治の初めから、国のことは、やはり色々と心にかけていたようです。ただ一切発言はしません。
 それを伺い知る資料に、水戸市丹下(見川)の徳川家(昭和二十年以降の一橋家邸)に残された、池田仲博さん(慶喜公の息)の談話に関するメモがあります。ふだん維新の話は一切しなかったが、ある時慶喜公が言われるには「あの時は、ああするより他なかった、やっぱりあれが一番よかったんだ」と言うことを言われた。慶喜公としては、その後の事を考えても、あれより他に方法は無かったという感慨を漏らされたと思われます。子供として、その意見はあまりにも傲慢にも思えるが、大日本帝国憲法が出来て、父は非常に喜んで居た。その喜びの気持ちが、そう言わせたのであろう、といわれたメモが残っております。
 大日本帝国憲法が出来て、これが自分が願った姿なんだと、言葉で言わないまでも子供にはそれが伝わった、と思われます。憲法が出来るまでは西南の役を初めとしていろんな問題があったわけです。また、憲法草案についてもさまざまな意見が出されました。日本の国体を踏まえた上で諸外国と比べて遜色の無い、近代国家としての、さまざまな要件を備えた憲法ができあがった。このことを非常に満足されていたようです。
 要するに大政奉還は決して政治を投げ出したものではない。しかしそれは新しい権力機構を作って自分がその頂点に立とうとする陰謀ではない。あくまでも国のために政治の混乱を避け、統一した国政を打ち立てるため朝廷に一本化し、自分もまた新しい時代の為に働こうという強い意欲のもとに行われたものでありますが、事、志と違って鳥羽伏見の戦いとなり、賊軍に成ってしまった。以後はやはり本来の趣旨を貫いて一意恭願を守られた。そして退隠を許されてからも一切政治の世界から身をつつしんでいた。そう考えて見ますと将軍後見職になってからの流れの中での慶喜公というものは、墓本的精神においてはずっと一貫して居たと言えます。時々の政策や判断においては後で批判も出来ますが、墓本的には水戸の精神を受け、水戸の教えを基本としながら、皇室のため日本国のため、国の独立を維持するために、懸命に努力をして来たと思いますし、強情な方では有ったと思いますが、二心公と言われる所は無く、策略家でも無かったと思います。
 このような慶喜公を育てたのが水戸の学問でありました。弘道館での勉強であり、烈公の教えでありました。この事を考えますと「教え」「歴史」というものが、やがて次の歴史を造っていくということは明らかであって、光圀公の大日本史編纂の事業が明治維新を生み出して来たと言っても、極端な表現ではないと思います。
 最近、大日本史編纂事業は幕府の権威を確立するためであったとかいう人が結構いるようですが、黄門さんはそんな心の狭い方ではありません。大日本史は何を伝えたかったのか。大井松隣は、大日本史の序を書いた方でありますが、その折の昔翰によれば、古い方の大日本史の校正を三度読みました。それで分かった事は何であるか。日本の国は万世一系の天皇がその御徳によって統一して来たこと、これは日本の国の特色である、専一自慢のところである、ということが良く判った。これが大日本史の趣旨なのである、と言うことをなんとか序文に書きたい、として書いたのが最初の草稿であると述べています。これは彰考館の総裁たちに、よってたかって手を入れられまして、書き直して出来たのが、現在残されている、あの序文であります。これは非常な名文で人々を驚かしたのでありますが、この一つをもって判りますように、幕府を支えようとするならば、幕府には「本朝通鑑」があるのですから、大日本史の必要はありません。林家の本朝通鑑ではだめである。ということで大日本史が編纂されたのであります。ですから決して幕府権力を支えようというような、近視眼的な狭量なものではありません。もっと本質的な、人間の社会とは何か、国家とは何か、本当の意味の平和とはどうやって生まれてくるのであるのか、を考える。歴史を見れば騷乱が絶えないけれど、そう云うものを極力押さえて本当の安定と平和というものを考える為には、国の責任ある立場の者は、歴史を学ばなければならない。日本の歴史の中で何を拠り所にすれば、それが可能なのか、これを問うたのが大日本史の眼目であろうと私は思います。
 慶喜公の生涯を辿って行く中で、その行動を導いたものは何か。聡明な資質と同時に水戸の教え、水戸の学問がその基礎をなし、骨格となっていたと云うことは誤りはないと私は思います。
 考えて見れば、あの難しい時代に、そういう人物が出て来て、とにかく最後の土壇場で、ああいう決断を下した、それが日本の国の分裂・内乱を結果的に救った、と云うことを考えますと、日本の歴史というものは、誠に不思議な気がします。これは維新ばかりではありません。時代、時代の節目、節目に、それぞれありました。先人が、我が国は神国、神々の守る国と言った意味がわかるような気もします。それを東湖先生は「正気」と呼ばれたのでありましょう。
 以上で今年の講座を終わらせていただきます。長期間ご清聴ありがとうございました。

               (平成9年12月7日講座)
               (茨城県立太田第二高等学校長)