年末・年始キーワード辞典


大晦日(おおみそか)

年越し(としこし)

年越し蕎麦(としこしそば)


正月(しょうがつ)

初詣(はつもうで)

若水(わかみず)

門松(かどまつ)

注連飾り(しめかざり)

鏡餅(かがみもち)

破魔矢(はまや)

お年玉(おとしだま)

七草・松の内(ななくさ・まつのうち)

鏡開き(かがみびらき)

どんど焼き(どんどやき)










  • <大晦日(おおみそか)>12/31


 一年最後のみそか、十二月三十一日のこと。
 毎月の晦日をつごもりともいい、十二月三十一日は大つごもりとも称している。大晦日は一年の最後の日なので、商店街では忙しく、店によっては、かなり遅くまで商いをする光景が見られる。
 一般家庭でも、大掃除や正月用食品の購入、注連縄や鏡餅など正月飾りの準備で多忙な日となる。
 かつての江戸や明治時代の東京では、大晦日のこの日は、人通りも多く、朝早くから夜遅くまで活気があったという。あちこちに歳の市が立ち、商家では新しいのれんに掛け替え、暗くなると軒提灯、高張提灯を出して、夜遅くまで商いを続けた。そして町中を借金取りが駆け回ったという。歳の市には露天が並び、南天や福寿草などの植木も売られた。
 この日は朝早くから、門松・注連縄・鏡餅を飾り、御節料理を作って正月の準備をする。夜になると家族そろって年越そばを食べ、除夜の鐘を聞きながら新しい年を迎える。

 宮中では、大晦日には節折(よおり)の式、大祓式、除夜祭が執り行われ、神社では、大祓式を行なって罪や穢れを祓い、また一年間のご加護に感謝し、良い新年が迎えられるように祈る今年最後の祭典として、除夜祭が執り行われる。
もどる




  • <年越し(としこし)>12/31


 大晦日から元旦までの間、またはその間の行事をいう。年越しの境目が除夜となる。昔は年が一つ増えるから「年取り」ともいった。また一年の替わり目で、大歳・年の夜ともいう。
 除夜は年神(としがみ)を迎えるために、心身を清め、一晩中起きているのが年越しの習いであった。昔は、年神を迎える神聖な物忌みの夜であった。この夜早く寝ると白髪になるとか、しわがよるとかいった俗信があるのは、その名残であろう。
 現在でも、夜眠らないで元旦を迎える地方がある。青森県の上北郡では尻枕といって、家中で炉の周りに集まり、年の順に人のお尻を枕にして眠る風習がある。これは本当に寝るのではなく、年の夜を守るという趣旨から出たものであろう。
 また青年たちが除夜の鐘を合図に、裸で海に飛び込む地方もある。これも一年中の穢れを落として、歳神を迎えるための禊(みそぎ)である。
 また酒や餅などを先祖に供え、御節(おせち)など特別の食卓につく風習がある。年越しそばもその一つである。また麦飯や鶇(つぐみ)や樫烏を食べる風習もある。これは「継身(つぐみ)を祝う」という意味で、樫鳥は「貸し取り」、すなわち上手にお金が取れるという意味で、質屋など金融業の人が食した。
 他に除夜に火を焚(た)く行事が残っている地方もある。神社ではこれを神事として行い、一晩中大篝火(おおかがりび)を焚いたりする。
もどる




  • <年越し蕎麦(としこしそば)>12/31


 大晦日の晩、家族みんなが寄り集まってそばを食べながら年を越す習慣。また、そのそばをいう。そば粉で作った麺は、本来そば切りといった。一年の終わりにそば切りを食べながら、きりよく一年を締めて新年を迎えることはすがすがしいことである。  除夜にそばを食べる習慣は、その起源は定かではないが、もともと江戸中期には毎月末にそば切りを食べる風習があり、一年の最後に食べるそば切りだけが年越しそばとして残ったものと考えられる。そばを食べるのは、そばが長く伸びることから、家運や寿命が長いことに通じるからという説や、そばが五臓の汚れを取るというので無病息災を祈るところからきたという説もある。
 この年越しそばの習慣が始まったのは、江戸の中期の元禄の頃からである。元禄といえば、町人の勢力が強くなった時代で、年越しそばの習わしだけでなく、町人文化から始まった習慣やしきたりが少なからずある。
 そば切りは長いから、命を延ばし財産を延ばすなどと語呂で縁起をかつぐことが多いがご元来そば粉はそばがきのようにして食べるのが普通であった。
 そばには粘着力があって、江戸の職人たちは大晦日の大掃除のとき、そばを練っただんごを持って、部屋の隅々の小さなゴミやほこりを取っていた。ことに金銀細工を生業としている人にはこの方法は珍重された。一年の最後とはいわず時期をみはからって、このそばだんごで飛び散った金粉銀粉をかき集めた。金粉銀粉のついただんごを七輪や火鉢の上で焼いて灰にすると、あとは金や銀の粉だけが残る。ここから、「そばは金を集める」という諺(ことわざ)も生まれたのだという。

もどる




  • <正月(しょうがつ)>


 新しい年、一年の初めをいう。
 一年の初めをどこに置くかについては、暦法によってさまざまである。現在の太陽暦では、日照時間がもっとも短くなる冬至を過ぎた頃に設けているが、日本で古くから使われてきた旧暦(太陰太陽暦)では、正月、つまり旧正月は立春の頃としていた。そしてその旧正月の始めも、元日つまり新月の朔日に置く大正月と、十五日つまり満月の望の日に置く小正月の二通りがあった。
 一年の初めを寿ぐ意味からも、ここには一年で最も多くの行事が集中しているが、大正月には年神や祖霊の来訪を中心とした行事が多く、小正月は豊穣析願などの農耕予祝的な行事が多くみられる。
 明治になって太陽暦が採用されると、新暦の正月と旧暦の正月が対立した。
このような重複した現象は正月の行事が最も重い行事であるために際立って目に付く。
 古代の中国では、王朝が交代すると革命の基点として暦が一変するので、人民もはっきり頭の切り替えが出来たのであるが、日本の場合は、せいぜい元号が変わる程度であるから、ただ古いしきたりの上に新制を乗せて、古い方を捨てるでもなく、全部引っ括めて温存するやり方でやってきたわけである。
 一年の初めの月で、この月に行われる行事は、種類の上からも他に比類なく多く、心構えの上からも年間を通じて最も大切にされてきた。正月が盆と並んで、年二回の魂祭りの機会であったことは、古くから指摘されている事である。
 東日本の各地で、大晦日に祖霊に供するためにミタマの飯とかニダマと呼ぶ飯を仏壇に供える風があり、西日本でも元日にいわゆる年頭墓参の行事があるのは、いずれも正月に魂祭を行う作法である。
 盆が仏教的行事として、その色彩を濃くすると、これと対照的に正月は神祭の意識を強め、墓参や寺年始を松の内から後へ送って、神仏の区別をはっきりさせようとしたのであった。
 正月の魂祭には、祖先の霊魂とは別に年神または歳徳神という特別の神格が考えられ、そのために恵方棚などを設け、正月を年神の祭りとして理解した。
 火祭を行うことは、盆も正月も同様であるが、盆は迎え火・門火・高灯篭など戸ごとの行事が多いが、それは祖霊の去来する道筋を照らすものとして説明されたのに対して、正月の火祭りは、悪鬼・悪霊を追い払うという本来の意義を遺し、規模としては村共同で行うものが多い。
 盆にくらべて正月の最も違う点は、農耕儀礼の行事が多い事である。これは年の初めに豊穣を祈るために予祝の行事が多いのである。これはトシという言葉が本来稔りを意味している語であることからも当然といえるが、盆もまた、七日盆または七夕には農耕関係の祈願の行事が少なくない。
 このように盆は正月の裏月として両者の間には相似のものが多分に存在する。
 正月の行事を複雑にしている第一のものは、朔旦正月と望の正月との重複または繰り返しである。
 いま一つ正月の行事を複雑にしているものに、節分、立春の行事がある。立春は必ずしも正月になってから回ってくるとは限らず、いわゆる年の内に春の来ることもまれではなかった。陽暦では二月上旬に安定しているが、陰暦では正月上旬にくる場合も多く、しばしば正月の諸行事と重複するため、七日正月・小正月行事等との間には、追儺などの諸行事が互いに影響しあって、多くの類似行事が、土地ごとに組み合わせを変えて混在するようになった。
 正月の準備の開始日としては、十二月十三日とするところが多く、正月の事始めという。門松は元日の前一日は少なくとも休ませておくものとされ、松迎えなどと称する行事を二十八日以前に行い、餅も二十九日に搗くのを忌む風習がある。年越しの夜は、寝ずに静かに謹慎して年神を迎えるのが本来で、その解斎(げさい)の食事が雑煮である。  除夜に神社に参拝し、また除夜の鐘を境に二年にまたがるので二年参りなどというところもある。また元日の朝、または、または年頭に初参りと称して神仏に詣でるのも古い参籠の変型ともいわれる。朔旦正月が望の正月より比重が増し、いわゆる「三が日」から「五か日」、また七日までを松の内と称するようになった。
 正月の終わりは普通二十日に行うところが多かった。また二月八日を事納めといって十二月八日から始まった正月行事がこの日に終わるともいわれていた。
もどる




  • <初詣(はつもうで)>


 年が明けてから、初めて社寺に参拝することをいう。氏神、またはその年の恵方にあたる方角の神社仏閣にお参りをして、今年一年の無事と平安を祈る行事である。初参りともいう。近年は除夜の鍾が鳴り終わると同時に、人々が有名社寺にお参りする風習が一般化してきている。
 歳徳神は恵方神とも呼ばれ、年によって異なった方向に宿るといわれる。その方向を恵方というが、恵方にある社寺に参拝するのを恵方詣といった。古くは年籠りといって、祈願のため大晦日の夜から朝にかけて、氏神の社に籠るのが習わし(御籠り)であった。やがて、この年籠りは除夜詣でと元日詣での二つに分かれ、初詣の原形となっていった。現在でも、除夜に社寺に参拝してのち一度家に帰り、元旦になってまた参拝するという土地もある。
 全国の有名な社寺では、人々は前日から出掛けて行き、境内で除夜の鐘を間き、その地で元且を迎えるという光景が見られる。除夜詣と元日詣を一緒に済ませようというのであるが、現在のような初詣の形ができあがったのは、そう遠いことではない。
 また山に登って初日の出を拝むことも多く行われ、現在では初詣も行楽的な意味合いが強まってきている。
もどる




  • <若水(わかみず)>


 一月一日の早朝、井戸の水を汲んで神に供えること。またその汲んだ水をいう。若水は、年神への供え物や家族の食事を調えるのに用いられた。
 若水は邪気を除くと信じられ、福水・若井・初井・生華水などとも呼ばれる。元日の朝早く、まだ人に会わないうちに汲みに行き、もし人に出会っても口をきかないしきたりであったという。
 平安時代の宮中では、立春の日に主水司から天皇に奉った水(立春水)を若水といっていたが、後世になり元旦に汲む水をいうようになった。これは、古代の復水(おちみず=若返り水)信仰から発しているといわれている。
 汲んできた若水を神棚に供え、そのあと家族の食物をたき、口をすすいだり、茶をたてたりした。若水を汲むのは年男の役目とされたが、西日本では主婦が汲むところもある。
もどる




  • <門松(かどまつ)>


 新年を祝って家の門口などに立てられる松竹の飾り。松飾り・門の松とも。室町中期の僧、一休(1394〜1481)の有名な歌に、「門松は冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」とある。
 古くは、木の梢などに神が宿ると考えられており、門松はその依代(よりしろ=神霊が出現するときの媒体となるもの。門松などのような特定の枝葉や、花・樹木・岩石、あるいは形代など種類が多い。)として、そこに年神を迎えて祭るという意味を持っていた。したがって、正月の年神祭りは非常に重大な儀式であり、しっかりと年神をお迎えしないと、その年は不幸になると信じられていた。それだけに、依代としての門松は欠かせないものであった。
 門松は松とは限らず、榊・栗・楢・椿などの木も使われることがあり、常緑樹がよかったようである。平安時代末期から、門松は正月になくてはならない風俗として普及していった。鎌倉時代から、竹をいっしょに飾るようになったといわれる。門松の飾り方の種類は数十種もある。本飾りは孟宗竹を斜めに切って松の木を添え、注連をかけた豪華な飾り方である。一般の家庭では、松の小枝を門口の両側につけ、輪飾りをかけた簡単なものが使われている。門松や注連飾りなど、正月の飾りつけを行う風習は全国各地に残されている。年末のうちに飾りつけを済ませるのが普通であるが、三十一日にするのは「一夜飾り」といって嫌われた。
 また門松は正月六日の夕方に取り払うことが多く、そのため七日までを
「松の内」と呼ぶようになった。都会の商店や料亭などでは、早ければ十一月末頃から門松を立てたりする。派手に門松を飾る風習はだんだん少なくなっているが、それでも商店街などに飾られる豪華な門松は、現在でも正月の風物詩となっている。
 門松は本来、柴または榊などを祭りの斎(いみ)のしるしに差したものと思われるが、松を用いることが流行してから、これを神の依代とする信仰が生まれ、全国的に門松が普及した結果、柴、榊などその他の常磐木を年木として飾る行事や、祝言の芸能、餅花、粥を主とする神供は小正月に行うようになった。
もどる




  • <注連飾り(しめかざり)>


 正月などに、門松や玄関・床の間・神棚などを注連縄を張って飾ること。また、その飾り。人間に災いをもたらすという禍神が、家内に入らぬように呪(まじない)として飾られる。
 注連縄は左捻りを定式としているが、これは左を神聖視する旧来のしきたりである。また、飾りにも、輪飾りや大根じめ・牛蒡じめなどの種類がある。東北地方では、縄に餅・昆布・松葉・魚などを飾るしきたりがある。
もどる




  • <鏡餅(かがみもち)>


 円くて平たい鏡のように作った餅をいい、正月やお祝いのときに、大小二個の餅を重ねて神仏に供える。
 もともと年神様に供えるお供え餅をいった。古く神仏の祭りには、餅を供えるのが習わしであった。鏡餅という呼び名は、字のとおり鏡の形に由来する。昔の鏡は丸型の青銅のものが多く使われており、装飾用というより、神事などに使われ宗教的な意味合いが濃かった。
 鏡餅は歴代天皇が継承する三種の神器の一つ、八咫鏡(やたのかがみ)を象っているともいわれている。
 鏡餅が一般にも普及し、現代のような形になったのは、室町時代以降のことといわれる。これは、それまでの住居の建築様式が変わり、家に床の間ができるようになって、床飾りとして普及していったといわれる。
 武士の家では、床の間に、鎧・兜などの具足を飾り、その前に鏡餅を供え、繁栄を願った。鏡餅には、譲葉(ゆずりは)・熨斗鮑(のしあわび)・蝦(えび)・昆布・橙(だいだい)などを載せて飾るのが通例であった。これは具足餅(武家餅)といわれるものである。
 現在では簡単に、三方(さんぼう)に白紙を敷いて、それをたらし、その上に裏白(うらじろ=シダ科の植物)を載せて、大小の餅をニつ重ね、その上に串柿・干するめ・橙・昆布などを載せて飾る。
参照
→鏡開き
もどる




  • <破魔矢(はまや)・破魔弓(はまゆみ)>


 正月、神社などへ参拝に行くと、おみやげに破魔矢・弓を買うしきたりがある。これは魔除けになると信じられているからである。「破魔」とは仏教用語で、悪魔を破滅すること、煩悩を消滅することの意である。

 また生まれて初めて正月を迎える男の子には破魔弓を贈り、もらった家ではこれを新年に飾って祝う習慣もある。のちに細長い板に弓矢を飾りつけ、その下に戦人形などの押絵をはり、男の子の初節句の贈り物とした。破魔弓・破魔矢ともに、現在では単に飾りにすぎないが、昔は破魔打ちという年占競技に使用された。破魔打ちというのは、正月に行われる遊戯の一つで、二組が対抗して勝負し、その年の運勢を占うというもの。一方が、わらなどで丸く作った破魔矢の的を投げ転がすと、相手がそれを射落としたり、木の枝を投げてさえぎり、境界線を超えると勝ち、という遊び。破魔打ちは昔は広く行われていた遊びであったが、危ない遊びであるためか、現在ではすたれてしまった。
 また、破魔弓・矢は、家を建てる際の棟上の式に、屋根の上に飾られる。
もどる




  • <お年玉(おとしだま)>


 新年を祝ってする贈り物。現在では、正月に主に子供にあげる現金または品物をいう。
 もともとお年玉というのは、親類や内輪だけのもので、目上の人から目下の人へ贈られる性格のものであった。また昔はお年玉に、餅が使われていた。鹿児島県の甑島では元日に親が子供たちに餅を配り、これを年玉といった。この餅は神様がくださったものだとみなして大事にし、正月にめいめいで食べる習わしがあった。このような風習は現在でも各地に残されている。
 年の初めに贈り物をしあう習慣は古くからあったようで、すでに室町時代では盛んに行われていた。金子・筆・硯・紙・酒・餅などの品物が用いられ、これらを年玉と呼んでいた。
 一般家庭では、親や祖父母が子供たちにお年玉を贈ることが多い。商店では年賀のしるしとして、得意先にタオルやカレンダ−などを配る風がある。
 年始先に子供がいれば、お年玉を贈る習慣がある。お年玉は子供に限らず、社員やお年寄りにあげても失礼にはならない。現金を贈る場合は、子供の年齢を考え、相手が負担にならない程度にする。また手渡す際は、お年玉と印刷された専用の小袋を使うことが多い。なお、お年玉は現金とは限らず、文具やおもちや・絵本なども使われる。お年玉は子供にとって正月の楽しみの一つである。
もどる




  • <七草(ななくさ)・松の内(まつのうち)>1/7


 一月七日の朝、七草の野菜の入った粥を食べる習わしをいう。「七種(ななくさ)の節句」の略。これを食すると、邪気を払い万病を除くといわれ、現在でも、日本全国で行われている。
 中国では一月七日のことを「人日(じんじつ)」と呼び、七種菜羹(しちしゅさいのかん=七種類の野菜の羹(あつもの))を食ベ、無病を祈る風習があった。日本でも江戸時代、人日は五節句の一つに数えられ、将軍以下諸公が七草粥を食する儀礼があるなど、公式の行事であった。
 七草粥の行事は古くから日本にあったようで『延喜式』にも記載されている。それによると、平安時代頃は一月十五日に行われ、粥の中身は米・粟(あわ)・黍(きび)・稗子(ひえ)・みの・胡麻・小豆の七種の穀類であった。『枕草子』には「七日の若菜…」とあり、その後の文献にもいくつか記載はあるが、七草の種類については諸説があり、地方によっても異なっていたようだ。
 春の七草は芹(せり)・薺(なずな)・御形(ごぎょう)・はこべら・仏の座・菘(すずな)・すずしろのことを指す。薺=ペンペン草、御形=母子草、はこべら=はこベ、仏の座=タビラコ、菘=カブ、すずしろ=大根のことである。
 これらの七草を、六日の夜から七日の早朝にかけて、まな板の上で庖丁でたたき刻むのであるが、この時、子供たちが七草の囃唄を楽しく歌いはやす風習があった。
 この囃唄には「七草なァずな、菜っ切庖丁、まァな板、唐土の鳥が、日本の国へ渡らぬ先に、合せて、バッタバタ」(愛知・静岡地方)などがあったが、これは地方により異なっていた。また、この囃子詞は実は鳥追い唄に由来しており、農作物の敵である害鳥を追い払う意味も込められていた。これは七草粥の行事と、作物を荒らす鳥を追い払い豊作を願う行事とが結びついたものと考えられている。
 七草の行事は古くから、子(ね)の日の遊びともいわれ、正月最初の子の日に近くの野原に出て若菜を摘む風習があった。平安時代には大変人気のある行事であった。『枕草子』にも「七日の若菜を人の六日にもて騒ぎ…」とある。南九州では、現在でも、この日には「七所祝い(ななとこいわい)」の行事が行われる。数え七つになる子供が正月七日の朝、お盆を持って近所七軒を回り、七草粥(雑炊)をもらい集めて食べるという素朴な行事である。その子は病気をせず、また運も良くなると言い伝えられる。
 またこの日は、正月の門松や注連飾りを取り除く地方が多い。正月をひと区切りする意味で元日からこの日までを松の内という。
もどる




  • <鏡開き>1/11


 正月に供えた鏡餅を下げて食べる祝いの儀式。
 昔は、正月二十日に行われていたが、徳川三代将軍家光が他界したのが二十日であったため、十一日に変更され現在に至っていると伝えられている。
 鏡餅は刃物で切らずに、手や槌で割ったり砕いたりして食べるのがしきたりである。そこで、切るとはいわずに「開く」とめでたい言葉を使ったのである。
もどる




  • <どんど焼き>1/15など


 地方によって、とんど・左義長(さぎちょう)・どんどん焼き・さいとう焼き・ほっけんぎょう・三九郎焼きなどの名があるが、正月の松飾りを各戸から集めて、一定の場所に積み上げて焼き上げる行事である。子供の所管になっているところが多いが、中には若者や大人が参加する所もある。神社では松焚祭・注連焼神事などの名称で神事として行っているところもある。東日本では賽の神または道祖神の祭と結びついたものが少なくない。
 小正月を中心に十四日の夜または十五日の朝に行うところが多いが、同様な火祭り行事を正月六日または七日に行う風習が九州一般にあった。また一部の地方では年越しどんどと称して大晦日に古い注連縄や神棚の不要になったものなどを集めて焼く行事を行い、もう一度十四日の夜などに火祭りをくりかえし二度火祭りをする所が西日本には少なくなかった。
 左義長のほかに盆にも大掛かりな火祭りを行うのが国全体の習いであったようだから、日本人の信仰と生活の上で、火祭りによって荒ぶる精霊を追い払う行事がいかに重大であったかが知られる。
もどる